南北朝時代 (日本)
一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。これは室町時代の初期に当たる。 この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。それぞれ正統性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する 南朝方は名和長年・結城親光・千種忠顕のほか、北畠顕家・新田義貞らが1338年(延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348年(正平3年/貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行・楠木正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮(大阪市住吉区)とする。 1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏。年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。 |
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