山城国
山城国 は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する 「やましろ」は、古くは山代と書き、7世紀に山背国という表記で国が建てられた。延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から山城国に改称した。これが「城(ジョウ、き)」という字を「しろ」と読む原因となった(詳細は城を参照)。 平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していたと見られている。 国府は、相楽郡(京都府山城町上狛)、葛野郡、乙訓郡(797年、長岡京南)、乙訓郡(『和名類聚抄』に、河陽離宮。861年、大山崎町大山崎)の順に変遷した。 『拾芥抄』では「乙訓郡、府」と記載されているほか、『節用集』(易林訂正、奥書 跋末「慶長ニ<丁酉>易林誌」)には「乙訓郡、府」と記載されている。 山背(山城)国府は8世紀前半まで南山城、その後延暦16年(797年)まで葛野郡、延暦16年から長岡京の南、貞観3年(861年)からは山崎に置かれた[2]。それぞれ山城町上狛(かみこま)、京都市右京区太秦、長岡京市神足または久貝(南栗ヶ塚遺跡)、大山崎町大山崎にあてる説が有力である。度重なる移転は遷都の影響とみられる。 守護所は、当初、山城国守護を京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。 |
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