京都町奉行
江戸幕府成立以来、京都とその周辺の行政は京都所司代及び京都郡代が管轄していたが、その職務が過重となってきたために、京都郡代を経済・財政部門を扱う京都代官に改め、今まで京都郡代が担当していた京都とその周辺(山城・丹波・近江・大和)の裁判及び天領に関する行政の権限については、万治3年11月22日(1660年12月24日)に小出尹貞が執り行う事になった(『万治日記』)。ただし、当時はまだ京都町奉行にあたる役職が無かったために小出は定数外の伏見奉行として派遣されて、前京都郡代の役宅に入っている。寛文5年6月25日(1665年8月6日)に小出が死去すると、同年8月6日(1665年9月14日)宮崎重成と雨宮正種の2名に小出の後任を命じられ、翌寛文6年3月11日(1666年4月15日)には伏見奉行水野忠貞が兼ねていた畿内5ヶ国・近江・丹波・播磨の奉行職を免じられて両名に移管された(なお、水野の伏見奉行辞任は寛文9年(1669年)である)。更に寛文8年(1668年)に入ると、京都所司代牧野親成の退任も決まり、これを機に所司代が担当していた京都市中に対する民政部門を統合して京都町奉行が成立し、宮崎は初代東町奉行・雨宮は初代西町奉行となった。 老中支配であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った。京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。 |
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