桓武天皇
白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。 父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる[1]。 天応元年4月3日(781年4月30日)には光仁天皇から譲位されて天皇に?き、翌日の5月1日には早くも同母弟の早良親王を皇太子とした。同月15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に、藤原乙牟漏を皇后とした。皇后との間に、安殿親王(のちの平城天皇)と神野親王(のちの嵯峨天皇)を儲けた。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(のちの淳和天皇)がいる。 延暦4年(785年)9月頃には、皇太子早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。 |
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